☆☆Once in the life-time meeting☆☆~一期一会~

令和元年から令和3年8月までに書いた記事です。ここに書かれた内容の中に、少しでもお役に立てることがあれば嬉しいです☆officeきらほし☆

機嫌をとらなくていい理由☆

今から10年近く前に、

わたしは、

「人の(相手の)機嫌をとるようなことをしては絶対にダメだよ、自分の機嫌をとっていればいいんだよ」

という考え方に、

知識として触れました。




今考えると、

それは、

ざっくり、


「自分を守る」


という意味のことだと「認識」してきたのだと思います。



要するに、

「不機嫌にひっぱられない」

だとか、

「相手の不機嫌の波動を受け取らない」

ための、

絶対的に大切な方法なのだと、

認識してきたのだと思います。




相手は相手の都合で機嫌が悪いわけで、

それは相手の中で起きている問題なのだ、

(だからそこにエネルギーを注ぐようなことはしないで、ほっといてあげればいいのだ、的な(笑))


という、

一種の切り離しみたいな感覚で捉えていたのだと思います。




それが、

10年近くの時を経て、

この、

つい3~4日間に、

なぜかはわからないけれど、

その観点がガラッと変わってしまうことになりました。




結論から言うと、



「不機嫌」と捉えていた相手は、

果たして本当に「不機嫌」なのだろうか?!



という発想が、

なんとなくハッとやってきた、ということなんです。




これ、

その人にとっては別に「不機嫌」でもなんでもなく、

ただただ、

切ないくらいに純粋に、

「全身全霊で自分を生きている」

だけなんじゃないだろうか?と。



むしろ、

その人は、

今まさに自分を開放しているのではないか?と。




子供の頃は(本来は)、

わりと否定的なことも、

なんの悪気もなく素直に表現しますよね、

それも全身全霊で。


(ここでは「いや、わたしは幼いころからそういうことを言えない(言わない)子でした」とか、そういう話はまた別問題として(笑))



それって子供にとっては、

喜びとかワクワクと、

まったく同じ類いのエネルギーなんだと思うんですけど、



それがなぜ受け入れられるかといえば、

大人は誰も、

子供に「空気読め」みたいなことを求めていないし(笑)、

(「いや、わたしはいつも家族の顔色を見ていて」みたいな話も今はまた別問題として。。。(笑))


教育として、

こういう言葉を使うようにしなさい、こういう言葉は避けなさいということを、意図的に教える場合はまた別として、


それが、

「その人(子)の魂なんだな」

ということを、

本能的に受け入れているから、

それを特に問題にしないのではないかと思うんです。



でもそれが、

大人のすることとなると、


「なんでこの人は今それ言うんだろう、⚪⚪でいいだろう!」

みたいなことになってきちゃうんだと思います。




みんなそうかはわからないけれど、

人には人の、

「平和・幸せとはこういう感じ」

という、

イメージや定義みたいなものを、

持っているような気がします。



わたしには、

特に強くそれがあったのかもしれません。



「こういうのが平和」

「こういうときはこんなふうに空気を和ませたい」

などなど、



逆から言えば、


「こういうのは幸せじゃない」


という「感じ」が、

認識としてガッチリインプットされていたのかもしれません。



でも実はその認識自体が、

むしろ自分にストレスを与えていたのかもしれないと、

なんとなくハッと気がついたんです。




喜びやワクワクを素直に表現しているときには、

「本当に純粋・素直だなぁ」

と、捉えられるのに、



それが否定的な言葉や不満なんかだと、

「なんで不幸を呼び込むんだ」

みたいな受け取りかたになってしまったり、



ブスッとしているだけで、

「空気悪いなぁーー。。嫌だなー。。」

と捉えて、

なんか「フォロー」してしまったりする。。。




「でも⚪⚪でよかったよね~」

とか、

「そうだよね~~わかるわかる~~」

などと、

「これ以上広げるなよ」的な攻防が、

心の中で葛藤していたりして(笑)




そのとき、

その相手を「不機嫌」と位置づけしてしまっているのは、

他ならぬ自分で、



それによって、

相手の純粋な魂の表現を、

これ、立派に否定しているんですよね。




相手の発しているものが、

たとえポジティブなものではなかったとしても、

それも正真正銘その人の魂の表現なんですよね。



そういうふうに、

まっすぐ自分を生きているから、

むしろその人ハッピーなんです(笑)

まぁ、ハッピーと感じていないにしても、

少なくとも、

自分を開放して自由に生きているのだと思います。




その人には「自分が不機嫌である」という認識は、

たぶんまったくないのだと思います。



そう考えると、

相手の機嫌をとらない理由って、



相手の不機嫌をもらわない、とかではなく、



そもそも相手を「不機嫌」と位置づけている、

自分の受け取りかたの問題なのだということが、

わかってきたんです。



自分の中の幸せの定義をちょっと外すというか、

自分には受け入れ難い言動が相手にあったとして、

(もちろん「程度」はありますよ、絶対にいけないことはあります)




その空気・波動を、

「自分の考える幸せ」へと持っていこうとすると、

なんかこう、

こんがらがってしまう。。。



でも、

「あ、この人は今、自分を開放しているんだな」

と捉えれば、



喜びも否定的も、

おんなじ魂の表現です(^^)



※常にとめどなくネガティブ発言が止まらない、というような場合はこれ別次元で、特別な対応・対処が必要です。




でも、

自分も同じようにするかどうかは、

いいんです、

別問題で。



あくまでもポジティブ表現に生きてもいいんです、

ブスッとしないほうが、相手にとってもいいに決まってます(笑)、



でも、

相手の魂の表現を受け入れられるだけで、

自分の生きている世界が変わります☆




「不機嫌な人」という認識がなくなるわけですから、

当然、

「顔色を見る」だとか、

「機嫌をとる」という行為・価値観がなくなります。




わたしはわたし、あなたは勝手にやって、というような話でもなく、



なにか世界がグン!と、

また、まぁるくぼわん!と広がる感じですね(^^)



また、

自分にとっても、

「これくらいゆるくていいんだよ」と教えてもらっている気もします(^^)




「素直」や「純粋」って、

時に台風のように、

盛大なエネルギーをもってこちらを揺さぶってくるけれど、

すごく命のほとばしりを感じるし、

やっぱりなんだか、

スッキリさっぱりしているんですよね☆

透けて向こう側が見えるくらいに、

透明感があります(^^)



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have a nice day !